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The Japan Times, Saturday, JULY 10, 2010

建築家が望む、“出る釘は打たれる“という風習への終止符

 

―パッシブハウスのエキスパートによる“飛び出ること”から始まる新しい教育方針の追及―

 

The Japan Times
2010/7/10 The Japan Times

キーアーキテクツの代表である森みわさんは、彼女の専門分野の一部として、また人生観として、“釘“について思う事が多くあります。

 

「日本で女性として社長であるということは、本当に大変な事ですが、だからこそ日本に帰国するタイミングはとても慎重に考えていました。もしも帰国が2年早かったとしたら、今以上に困難なことであったでしょう」森さんは言います。「出る釘は打たれるということわざがあります。でももし釘が十分に飛び出ていれば、すなわちあなたが他の人と大いに違っていたり、何かを十分に確立したりしていれば、もう誰も打ちつけることが出来なくなってしまうはずです。」

 

森さんは自身の理念をもって生きています。彼女は22歳の時、ドイツで建築の勉強をするために日本を離れましたが、当時の彼女の才能はほんの少しだけ目立っていたにすぎなかったはずです。しかし10年後には、省エネ建築のエキスパート、環境に優しい建築に関する一般向けの本の著者、そして国内で初めてパッシブハウスの認定を受けた設計者として、新たな基盤を作り、日本を環境に優しい建築へと導くのに十分突出した存在となったのです。

  

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これまでの道のりは簡単な事ではありませんでした。森さんは当初、大学に進学したいかどうかも分からなかったと語ります。「形を作ったり、描いたり、特に立体的な造形を作ることに興味がありました。次第に美大への進学を考えるようになり、受験のための準備として自分の作品集を作りはじめましたが、デザインの対象は少しずつ大きくなっていきました。建築はもっとも大きな芸術作品で、作るのが最も困難な彫刻作品であると言えるでしょう。」


森さんが建築を学ぶことを決意した時、彼女の曽祖父が1919年に台北で、大統領官邸や日本の他の建築物を設計するなど、有名な建築家であることを知りました。「突如、曾祖父から引き継がれた血への期待を感じると、やりにくくなってきたので、家系の話とはしばらく距離を置くことにしました。それでも横浜国立大学の(日本建築史の」授業では、曾祖父の事を学ぶことになりました。」


大学在学中、森さんはやわらかい形状の建築に興味を持つようになりました。「設計演習の際に、四角い形を作る分には特にその理由を追求されなかったのですが、局面を持った形を作ると必ずその理由を説明しなくてはならかなった事が不思議でした。」


同大学の石井一夫教授は、森さんにシュツットガルト大学でのFrei Ottoの膜構造や軽量構造の研究を紹介しました。そして森さんは1999年に学部を卒業し、同大学の修士課程に進むと同時に、シュツットガルトで勉強するために、一年間の奨学金に応募し、その権利を得たのです。


「(Frei Ottoの研究所での)一年が過ぎ、もっと多くの事を勉強したいと感じたため、横浜国大に戻ることをやめ、シュツットガルト大学の修士課程に籍を移すことにしました。 同時にMahler Guenster Fuchs (MGF Architekten)という設計事務所にインターンとして夜働き、昼間は大学に通いました。それは言葉のハンデもあって、非常に大変な毎日でした。私はまだ学生という感覚があったのですが、事務所では大きな責任のある仕事を任されていました。」

 

ここでの仕事が彼女を再び日本と繋げるきっかけを作ります。MGF Architektenは東京ドイツ大使館の国際設計コンペに勝ち、彼女が大学で修士課程を修了するやいなや、直ぐにフルタイム・スタッフとして働き出すことになります。彼女の努力は報われたのです。5年間のドイツ生活で、言葉の壁は無くなり、修士を取得しただけでなく、環境に配慮した建築に関する貴重なノウハウを習得していました。


「省エネに関するノウハウや経験というのは、ドイツでは比較的当たり前の事でした。誰もが認識していなくてはならない分野です。ここで私は、どのように適切な壁構成をデザインするかや、建築物理学に関する一通りの知識を学ばなくてはなりませんでした。どのように結露を防ぐか、どのようにエネルギーを節約するか、また建物の気密性能がなぜ大切なのかといった事は、日本で建築を学んでいた頃は全く知りませんでした。なぜならそういった事を誰も教えてくれなかったからです。」

 

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森さんは裕福なクライアントからの依頼を受けた仕事に取り組むことで、イタリア製の洒落たタイルや高級ブランドのドアノブをカタログから選んだりすることを楽しんではいましたが、それでも完全に満足していませんでした。「一設計事務所としてできることには限界があるのです。何故なら利益を得なくてはならないから。」


森さんは何か違う事を求めていました。そして彼女は、建築家として低収入の人々のための家や被災地のシェルターを作るために国連で働くという目標を見つけます。

 

ところがまず、彼女は国連で使用されている言語を取得しなければなりませんでした。なぜでしょう?「日本もドイツも戦争で負けたから、日本語もドイツ語も国連の言語として認められないのです。」と彼女は笑って答えます。

 

彼女は履歴書を英語圏のロンドンとダブリンの建築設計事務所に送り、3日後には返事を受け取ります。そして2週間もたたないうちに、彼女はドイツからダブリンに引っ越し、3週間後には彼女の人生のパートナーであり、同業者であるヨルク・ハイル氏がダブリンに越してきました。彼も直ぐに設計士として仕事を見つけ、二人ともドイツで体得した省エネ建築設計に関するスペシャリストとして実務を開始します。

 

「アイルランドという国はドイツのように省エネルギーの先端を行っていなかったので、私たちの雇用者はその知識を学びたがっていました。私たちはドイツのコンサルタントとのネットワークを生かすことが出来、その時から私の仕事は省エネ建築デザインに特化していきます。」その仕事が森さんをパッシブハウスに導いていったのです。


パッシブハウスとは、低予算の設備投資で省エネルギーを達成した建築に認定を与える第三者機関です。パッシブハウスはドイツで生まれ、1990年にパッシブハウスの第一号が建設されています。

 

「19年前に生まれたドイツのパッシブハウスの理念は、エコとは贅沢であってもボランティアであってもならない、エコとは誰にでも無理なく実現可能なことでなくてはならないということでした。」

 

パッシブハウスの概念を用いて、森さんはアイルランドのソーシャル・ハウジング(低所得者向け国営賃貸住宅)のプロトタイプを設計、パッシブハウス研究所の性能要求を正確に設計できるエキスパートとなりました。

 

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アイルランドで知識や経験を蓄積することは大変打ち込み甲斐のあることでしたが、一方で森さんは国連のポストに応募できる年齢制限である32歳になろうとしていました。また、彼女の人生はとても充実しており、彼女はハイル氏と結婚、二人の間には男の子が生まれていました。

 

そして、森さんは日本向けに本を書く計画を立て、同時に日本で第一号となるパッシブハウスの設計に着手します。ヨーロッパで10年間を過ごしたことで、自分の釘がそれなりに突出している事を認識したのです。

 

「これまでの自分の経験を生かし、自分が日本に何かを持ち帰ることが出来るのではないか、と考えるようになりました。日本の建築界にすっかり抜け落ちている事、それは省エネルギーでした。」

 

ドイツで得た彼女の知識と、アイルランドでのパッシブハウス・プロジェクトの成功から得た経験を持って、森さんは日本に何か新しいものをもたらすことが出来るのでは、と感じていました。世界中で15,000戸のパッシブハウス認定を受けた家が建っていたとしても、そのほとんどがドイツとオーストリアの事例なのです。


森さんは故郷に帰りたいとも思っていました。「一度だって日本から逃げ出そうと考えたことはありませんでしたし、いずれ日本に戻るつもりだったのです。私の夫が日本に対して好印象を持っていたことは非常にラッキーでしたし、私がこれまでドイツで外国人として苦労してきた事を、彼なりに理解したいと思っていたようです。」


2009年、息子と共に日本に戻り、神奈川県鎌倉市に新居を構えます。鎌倉という街には伝統的な日本建築が残り、緑に囲まれた中でのゆっくりとした生活のペースがお気に入りです。彼女の夫は、移住が上手くいかない万が一に備えてダブリンに残り、家族の家計を支えることになりました。けれども半年後には、彼は鎌倉の家族に合流することが出来ました。鎌倉パッシブハウスや出版された本の反響は大きかったのです。

 

「鎌倉パッシブハウスのプロジェクトを通じて、新しい問題に直面しました。冷房や除湿の問題、そしてシロアリ対策、耐震性能、夏と冬で壁の中の水蒸気の流れが逆転するという現象など、ヨーロッパでのパッシブハウス設計よりもややこしい事ばかりでした。私の設計がパッシブハウス基準を満たすようにクロスチェックしていたドイツ側の研究所にとっても、大変難しいプロジェクトでした。」2009年に鎌倉パッシブハウスが完成、その一ヶ月後には本の出版に至りました。それによって日本の建築業界から広く注目を浴びるようになっていったのです。

 

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それから一年、彼女は執筆やさまざまな分野の人との面会、専門家への講演やセミナーといった教育・啓蒙活動に重点を置いています。

 

今年の4月からは森さんは東北芸工大学の客員教授に就任しました。同時に茨城県で着工する次のパッシブハウス・プロジェクトのコンサルティング業務に従事、一方奈良県のとある工務店と共同で、ランニング(建物の使用中)とイニシャル(建設中)のエネルギーが最小限となるような住宅づくりのためのプロトタイプを設計しています。 

 

森さんは言います。「私たちは日本建築において、偉大な伝統を持っています。資材のために使うエネルギーはほとんどゼロでした。土、竹、木、紙、といった材料は、全て自然に還るものだったからです。けれどももし現代の私たちがそのような家に引越したとしたら、エアコンや灯油ストーブなどを使ってしまうでしょう。私たちの生活スタイルの変化につれて、私たちの住宅のあり方も変化していかなければなりません。私はこの伝統的な日本家屋の持つ良さを、今の時代に合ったエネルギー効率のいい家に反映させていきたいのです。」 


時には保守的な日本の住宅業界からの風当たりを感じることもあります。30年で住宅の価値は無くなってしまうというのが、これまでの常識でした。現在の傾向では、今までどおりの薄っぺらな壁で家を構成し、風力発電や太陽光発電を載せ、高効率のエアコンやらを搭載することで、カーボンニュートラルな住宅を実現しようとしています。しかし、30年後にはこれらの設備は寿命を終えており、住宅自体には価値が一切残らない。ですから結局それを解体してゼロから家を建てる。そういった終わりの無い廃棄サイクルが繰り返されるのです。

 

「けれどももし家の外皮が適切に設計されていた場合、その家は100年以上の耐久性を持つことが出来ます。結露の心配も無く、エアコンの風が吹き荒れることなく、室内の温度を常に一定に保つことが出来ます。それによって今までと違った生活を手に入れることが出来るし、家族がストレス無く暮らせることが何よりも大切です。」彼女は言います。

 

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森さんが日本のための今後の抱負を語る時、彼女の顔が穏やかになりました。「多くの20代の若者が何かにおいて少しだけ突出しています。しかし残念ながら、彼らの多くはハンマーで打ちつけられてしまう。この社会において、あなたのちょっとした違いを認めてくれる人はなかなかいません。ですからそれを自分で守り、大切にし、成長させなくてはなりません。これが私の学生に伝えたいこと。私たちには新しいタイプの教育が必要なのだと思います。」

 

 

パッシブハウスと森さんに関する詳しい情報はこちら

www.passiv.de

www.key-architects.com

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東日本大震災を経て、省エネな暮らしの大切さに多くの方が気付かれました。2012年発売の「図解エコハウス」。これまで沢山のお施主さんがこの本を握りしめて設計相談に来られました。温熱を勉強したい実務者の方も是非!

パッシブハウス・ジャパン
東北芸術工科大学